2015年4月29日水曜日

『創造的思考力』人間にできてコンピュータにできないこと

アメリカは今、『創造的思考力』の教育に力をいれています!

と言うと、「また、アメリカか・・・」、「ここは日本だ!!」などの声が聞こえてきますが、残念ながら、日本の教育は10年遅れくらいでアメリカの後を追っているのが現状です。しかも、ゆとり教育は何の総括もされないまま失敗に終わりました。

日本の学校教育が機能していない、社会に出てから何の役にも立たないといいながら、なぜ当たり前のように子供を日本の学校に入学させて学ばせているのでしょうか?  単純にそういうわけにはいかない、という理由も理解できます。様々な理由があるのはもちろんです。

しかし、個人レベルでも学び方は変えることができます。そしてそれを実践することは、日々の習慣や積み重ねです。

アメリカが『個人を尊重する』教育方針を打ち出した頃、日本はバブルの絶頂期でした。そして、アメリカに追随するように、バブル崩壊が起こった1991年〜1993年の最中、1992年から日本でも段階的にゆとり教育が導入されていきました。そうして、ゆとり教育へと完全移行された2002年頃に、アメリカではもうすでに、『個人を尊重』するような教育はやっぱりダメで『学歴が重要』であると方針を改めました。日本では大々的にこのとこは報道されず、なにか縛り付けずに自由な個人の才能を伸ばす教育のような印象を与えながら、ゆとり教育を強行しました。

当時私は、ちょうど高校生で、自分の進路に悩んでいる時期でした。興味や関心が多すぎて、一つのことに的を絞れず、大学や職業に関する情報も乏しく、将来何がしたいかよりもまず理系か文系かという話をしなければなりませんでした。一体彼らは何の話をしているのかと思いながら、周りの様子を伺っていると、彼らは不安なメンタルの外堀を埋めていくように、とりあえず勉強し、理系か文系か、志望校はどこかを決めていきました。私は、それを決められなかったし、そんな周囲の環境に魅力を感じれなかったので、アメリカの大学に進学することにしました。

アメリカの大学を選んだ理由をいくつか挙げます。

  • 日本の大学に進学する気にならなかったから。
  • 同級生の発想やその年代の大学生の雰囲気などに魅力を感じなかったから。
  • アメリカでは大学の1,2年のうちは、専攻を決める必要がなく、様々な分野のクラスを受講することができるから。
  • 当時、理系の心理学(日本では文系か医学部か)に特に興味があり、犯罪心理学などアメリカの大学が最先端の分野があり、面白そうだったから。
  • 音楽が文化として根付いていて、音楽の環境も日本よりいいから。

高校では2年生まで理系にいました。理系の科目が好きではなく、3年になるときに文転しましたが、大学は、数学科を卒業しました。

少し話がそれてしまいましたが、アメリカの大学は入るのは簡単だが卒業が難しいと言われている通り、学校がある時期はかなりハードなスケジュールで学習していました。とにかくEssay(小論やレポートなど)を大量に書かせ、相手の意見やもうすでにある意見を参考に自分の意見を論理的に述べたり議論したりすることが、すべての学習の根底にありました。

「アメリカ人はスピーチが上手い」「アメリカ人は主張が強い」などのイメージは、このような教育がもたらした部分もあると思います。
これが日本人の文化や体質にそもそも合わないから、ゆとり教育が一過性のファッションで終わってしまったこともあると思います。しかし、さらにグローバル化によってその垣根もなくなってきている中、何かを学んで、考えて、行動する力が、多くの力で必要とされていているのは事実です。

そして今、コンピュータの発達ともに人工知能の研究も盛り上がってきている時代では、「人が何をするのか」「人がどう行動するか」、さらには、「人間にしかできないことは何か」といったところにまで議論が及んでいます。この類の話は今に始まったことでもなく、ずっと前から、議論されていましたが、それがいよいよ人間の日常生活のレベルにまで影響するかもしれないといったところまで話が進んできています。

上の問いに対する明確な解答は、もうすでに出ている通り、『創造性』を必要とする活動です。そして『創造性』は、なにも才能のある人のみの活動ではなく、日常のあらゆるところで普段から行っていることであり、それを意識することが大切であるというのが、現在のアメリカでの教育方針です。これを教室で実践して、学習やプロジェクトに応用することをさせている学校もあるようです。

現在の日本の教育システムでこれをやったらおそらく一瞬のうちに形骸化し、内容の伴わない遊びを提供することになるかもしれません。大人たちは、自分たちが学んでこなかったものをどのようにして教えることができるのでしょうか。もしくはそのシステムの準備のためにまた巨額な税金を使うのでしょうか。

賢明な人は、それを自分で考え実践しています。それは人間の活動の一つであり、いつの時代でもそれをしてきました。つまり、よく学び、よく考え、よく行動すればいいだけなのです。その意識の問題です。自分の行動に明確な意味付けをすればいいのです。それが人間ができて、コンピュータにできない唯一のことです。

2015年4月10日金曜日

コラム追加 『トロッコ問題への反応をめぐって』

完全個別指導塾 Inlight.edu のホームページに、新しいコラムを追加しました。

今回は、

『トロッコ問題への反応をめぐって --答えが出ないのになぜ考えるのか--』

というタイトルです。

「カルネアデスの板」といえば、耳にしたこともあるでしょうか。


人間の意思を決定するプロセスは、かなり複雑なものです。
人はあらゆる場面で、何かしらの判断を下して生活しています。
たまに訪れる、”後戻りの出来ない重大な決断” を前にした時に、その人は一体どういう経緯で、そのような最終的な決断をするに至ったのでしょうか。


  • いろいろ考えた結果、結局「運を天に任せる」と ”決定する”。
  • 一度は決定し、覚悟を決めたつもりが、土壇場になって、慌てふためいて我を忘れてしまった。
  • 過去の自分の経験を信じ、たとえ失敗したとしても、後悔しないと腹をくくり、ある選択をした。
  • あらゆる要素を検証し、体系的に考え、数学的に、求める目的に到達できる確率が最も高いものを選んだ。
  • 最も信頼を寄せる人のアドバイスに従うことに "決めた"。


など、様々なプロセスがあます。

一方で、もう後戻りができなくなる、その瞬間までは、まだ決定を”変更できる” 余地も持っています。


この意思決定のプロセスは、学習と大きく関わっています。
例えば、普段の学校の課題に取り組むとき、定期テストを受けるとき、受験本番のとき、ある生徒はその都度、最終的に ”決定された” 解答を提出します。

当然、彼がどんな状況なのか、そのテストの重要度や結果によって、現実的に彼にどんな影響があるのか、ということが、そのプロセスの質に関係しています。

以前解いたことのある問題またはその類似問題の中で、自分が解くことのできるギリギリのレベルの問題がテストで出題されたときに、どのような解答を最終的に提出するでしょうか? 前回よりも点数を上げるためには、そのような問題を正解する必要があります。そのために、勉強し、塾に通っているのです。
しかし、実際はどうでしょうか。制限時間の中で試行錯誤したのにもかかわらず、最後には混乱し、よくワカラナイまま、何となく導き出した答えを解答用紙に書いたり、適当に答えを選んだりすることも、少なくありません。

これが定期テストや小テスト程度の試験だからいいのでしょうか。
ではそれが、そのたった1問で、今後の数年や将来に大きな影響がある大学受験本番だった場合はどうでしょうか。

その実感や危機感を持てずに普段のテストの感覚で受験本番に望んでいる生徒も少なくありません。


これと、反対のことが、「結果論」と言われるものです。
こんなにも複雑な意思を決定するプロセスを無視して、出た結果だけがすべててを語る、と言ってしまうこともできます。

受験生においては、結果だけをみればそのプロセスなどどうでもよくなり、その年の問題傾向や倍率、志願者の層やその日の体調など、不確定要素が多くあるので、何が良かったことで、何が悪かったのかは、後になってはもう誰も知ることはできません。

しかし、結果しか見ない人は、その人を本当に理解しようとしているでしょうか?


以上のことをまとめると、次のようになります。


  1. 重要度が低いテストの場合、その結果が良くても悪くても、プロセスの質は軽視される。
  2. 大学受験など結果が現実に及ぼす影響が強いものは、良い結果が出ればそのプロセスは軽視され(結果論)、悪い結果が出ればそのプロセスは否定される(方法論)。
  3. 不確定要素は多いけれども、理想はプロセスの質を上げることで、結果を最大限にコントロールできるようにすること。


確かに、結果は、事実です。でもそれがどれほどの意味をもつのでしょうか。

本人にしか知り得ない重要なことは、いつでも語られる機会を持ちません。

それでも、充分に備えることもできるし、はっきりとした意志を持って、自分の実力をいかんなく発揮できる生徒もいるでしょう。

「何が重要で、何が無駄か」
「そんなことは受験には直接関係ない」
「理解よりも、点数を取ることが重要」

こういった考えでも、志望校に受かるかもしれません。

同じ確率で落ちるかもしれません。

さて、今、あなたに出来ることは、何でしょうか。

それを考えることは、常に重要です。